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鉄という素材は、武器や建築の構造材として利用されてきた歴史を持つ。硬質で重量のある鉄は、人間の技術や暴力の系譜と密接に結びついてきた。とりわけ近代以降の鉄は、安価で構造的強度を持つことから、資本主義的な生産と供給のシステムに最適化された素材として扱われている。その加工には、専門的な技術や道具が不可欠とされてきた。
私はこの鉄を手で曲げることで、作品を制作している。道具や制度化された技術から距離を置き、等身大の作用を投げかける。鉄が語るものとは異なる身体性と関係性を引き出すことを試行している。
制作から技術を完全に切り離すことはできない。技術は本来、“物事を前へともたらす”力を持つ。合目的で予測可能な仕方ではなく、失敗や事故、誤りを含んだ思い通りにならない仕方で技術と結びつく。
ジャック・ランシエールの言う「感性的なもののパルタージュ」は、何が可視化され、誰に開かれるのかという条件を問い直す。制作の中で、鉄の硬さと身体の力、目指される造形。それらがパルタージュ(分割/共有)されるとき、鉄の持つイメージから離れられる気がしている。
2025年4月 高松威

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